私を傷つけるのも、救うのも「人」であるという話

人が嫌い。人が好き。

相反するような気持ちだけど、誰でも思うのかもしれない。

そして困ったことに、私は相手の気持ちを普通の人よりも感じ取れてしまう。

相手が私を嫌いなのか好きなのかは大体わかる。私に対する態度や言葉から簡単に読み取れてしまう。

例えば「おはようございます」「お疲れ様です」の言葉を投げかけたとき、返ってきた言葉のトーンが低かったり少しでも冷たいと感じるだけで、何かやってしまっただろうか、嫌われただろうかと悩む。

ただそれは、私が原因なんじゃなくて、体調が悪かったり余裕がなくて人に優しくできない状況に相手が陥っていた可能性だってある。

それはすごく理解しているつもりなんだけど、でもやっぱり「冷たさ」を感じるとダメージを受ける。

あと、相手が意識していなくても「否定言葉」にもふいに傷ついちゃう。

「~しちゃだめ」「そうじゃなくて~」「いや、~」

私自身を否定しているわけじゃなくて、言葉や行動を否定して伝えたいことを伝えてくれているだけなのに。
わかってる。それは頭ではわかってる。でも心が追い付かない。

時に否定言葉は私自身の全てを否定されたような衝撃を与えてくる。
私自身も使っているから、人のこと言えないんだけどね(おい)

そうして人と関われば関わるほど傷つけられて、人と関わるのがめんどくさくなってきた。

一人でいたい。誰とも話したくない。

そうした思いが膨れ上がっていく。

でも。それでも。私は人と関わることを止められない。

人と話すことで気分が晴れることも、笑い合うことで気分が上がっていくのも知っているから。

加えて人との会話は「救い」さえもたらすのだと実感した出来事がある。

就活中に面接で落ち続けて心が弱り切ってしまったとき、後輩や先生と就活の話をした。
ほとんどが私の愚痴だったけど笑。

たった30分ほどの会話だったと思う。しかしその30分で私の心は救われた。

暗い海の底に沈んだような体や心の重みが一気に消え去った。
人に話すだけでこんなにも気持ちが晴れるのかと驚いた。

悩みを外に出すだけで、聞いてくれる誰かが居てくれるだけでいいんだと。

人は1人で生きていけないようにできているのだろう。

私を傷つけるのも「人」。

私を救うのも「人」。

それはいつの時代も変わらないのだろうなと思う。

自分の痛みに敏感であるということは、誰かの心の痛みにも敏感であるということ。

自分が傷ついてきた分、誰かの痛みを理解できる。それは私の長所に他ならない。

これから先、多くの人と関わっていくであろう。

私と出会う人たちを傷つけたくない。救うとまで大袈裟じゃなくても、一緒にいたいと思ってほしい。

同時に私の心も傷つかないように注意しながら。

私を傷つけるのも救うのも「人」なんだというお話。